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桜井みのる経歴

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生まれ、両親、子どものころ

 1958年8月、町田市生まれ、4人兄弟の次男。
 実家は水道工事店をしていました。水道工事の仕事は父親と職人の2人でやっていましたが、よく家族みんなで仕事を手伝うこともありました。私も中学の夏休みのときに井戸掘りの手伝いをしましたが、地下水が出るまでの炎天下の作業は、たいへんきつい仕事だったと思い出します。また父親が駆けずり回って集金したお金が右から左に材料業者に支払われるのを見て、子どもながらに「うちにはお金はないんだなあ」と思うほどの零細業者でした。
 子どもの頃の遊びは周りにあるものを工夫して遊んでいました。小学生の頃の町田市はまだ大規模団地ができる前で、畑や林も多く、遊び場はそこで、近所の子どもたちと基地をつくって走り回っていました。だんだん団地が出来はじめ林がなくなったり、ちょっと寂しい思いもしました。
 家の裏にはお寺さんがありました。(木曽町・傳重寺)家はお寺さんの借地でした。寺の広い畑を父親がひとりで耕していたので、食卓には野菜が欠かせたことがありません。父親は朝早くからの畑仕事と水道工事の仕事で、毎日忙しく働いていましたが、工事先で心不全で亡くなりました。54歳でした。

工業高校、専門学校、民青同盟加盟

 私は町田工業高校電気科で学び電気工事士の資格もとりました。高校の部活は先輩の演技を見て器械体操部に入り、鉄棒、つり輪、平行棒や床運動などで鍛えられ丈夫な身体につながったと思います。高校の仲間は「つっぱり」グループ。見た目はつっぱっていたけど弱い者いじめは恥としたグループで、他のグループと喧嘩もしばしば、先生から叱られてビンタを喰らったこともあります。
 私は高校卒業後、大田区にある日本工学院専門学校テレビ放送技術科に2年間通い、テレビカメラやビデオレコーダー、照明や舞台作りなど放送スタジオ関係を学びました。
 この学校は多くの学科があり年齢も様々で1万人ちかくが学んでいて、休み時間になると廊下にタバコの煙がたちこめ、タバコを吸わない人には迷惑でした。私は2年目に学生委員会委員長に選ばれて、すぐにタバコによる健康被害を訴えました。1978年、嫌煙権運動のはしりでした。その後建物内は禁煙になりました。
 学生委員会の先輩から民青同盟を紹介され、はじめて共産党のことを聞きました。私は理由もなしに共産党が「アカ」で怖いものだと思っていたので民青同盟に入るのを渋っていました。その後、民青同盟のサークルで、学友のアパートの部屋で恋愛、結婚などを議論したことをきっかけに民青同盟に加入しました。

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就職、共産党への入党、民青地区委員長

 専門学校卒業後に就職したのが渋谷ビデオスタジオ内にあったビデオスタッフという番組の撮影収録の会社です。照明、音響、舞台美術の各会社が渋谷スタジオ内にあり、それらと一緒に番組制作を行っていました。高橋英樹主演のドラマ「判決」、料理番組「ごちそうさま」などの撮影の仕事をしました。職場ではビデオエンジニア(VE)でテレビカメラのカラー調整をしていました。華やかな芸能界に憧れて就職でき、やりがいを感じていました。そして華やかな街に住もうと自由ヶ丘駅に近い世田谷区の奥沢に住むことになってから、ずっと世田谷区内に住んでいます。
 華やかな夢はすぐに現実のきびしい仕事で打ち砕かれました。テレビ番組制作は朝6時からスタジオに入り深夜の2時まで撮影する長時間労働で毎日クタクタになっていました。そんななか自分の仕事のことや将来のこと、生き方などに疑問を持ちはじめました。職場をよくしなければと労働組合にも話しを聞きにいきました。学生時代の友人から政治の仕組み、その政治が生活と深く関わっていること、苦しい生活が政治を変えることで変えられるとの話しが新鮮に思えました。また家族のために働いて亡くなった父親のこと、苦しい家族の生活から逃れている自分が恥ずかしくなりました。
 苦しみから逃げるのではなくそれをなくすことに立ち向かう、まじめに働いている人たちが豊かになる社会に変えられる、という展望がつかめ、日本共産党へ入党する決意をしました。1980年1月です。
 1984年から1994年まで日本民主青年同盟の世田谷地区委員長として青年運動の先頭に立ち、反核運動、PKO反対などの平和の運動と消費税反対など青年の要求実現の運動に取り組んできました。
 またこの時期に学んだ「空想から科学」「資本論」「唯物論と経験批判論」などの古典を仲間と学び合ったことが、自分の成長に大きく影響しました。

区議会議員、初当選、議員活動

 1995年世田谷区議会に初当選、37歳。
 前年に世田谷の共産党の区議を5名から6名に増やすということで区議会議員の立候補の要請を受けました。母や兄弟に伝えると驚きましたが、母は「自分が正しいと思うことは頑張ってやれ」と励ましてくれました。
 立候補した三軒茶屋の地域は、戦後いち早く都議会議員、梅津四郎さん活動し、森ひさし区議が活動していた地域です。また戦後の「コメよこせ運動」や原水爆禁止の平和運動など革新の伝統ある地域でもあります。選挙は地元の支部と後援会とともにたたかい、議席を得ることができました。
 1995年当選し、途中1回議席を失いましたが、現在4期15年の議員歴です。
 この間、大場啓二区長、熊本哲之区長、そして保坂展人区長と三代の区長のもとで、区民のくらしを守るために奮闘してきました。中学3年生までの医療費の無料化、安心して子どもが預けられる認可保育園の増設、介護保険の保険料、利用料の減免制度、住宅耐震補強工事の助成制度などを実現させました。さらに地域で誰もが安心して介護を受けられる特別養護老人ホーム増設計画をすすめさせました。
 また地域問題では、放置自転車の解決に三軒茶屋駅や上町駅の駐輪場設置、明薬通り、国士舘下に歩行者用信号機設置、千歳通りの歩道改修などを実現させてきました。いま三軒茶屋駅にエレベーター設置を実現させるために東急や国交省との交渉もすすめています。
 そのおおもとに共産党議員として、開発や大型公共事業優先から区民のくらし優先に切りかえることを一貫して求めてきたことが実現の力になっています。

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核兵器廃絶の運動

 私は青年運動のときから核兵器廃絶の運動に参加し現在も行っています。広島原爆資料館でみた一発の原爆が町を破壊し多くの人々を焼きつくした惨状に涙がとまりませんでした。
 地域で核兵器全面禁止の署名や原爆写真展などを取り組んでいます。こうした草の根の運動が国際政治を大きく変えてきています。地球上に核兵器が1980年代に7万発ちかくあったもとが、現在2万7千発まで縮小させてきました。
 毎年開かれている広島、長崎の原水爆禁止世界大会にも代表を送る運動や自らも参加するなどしてきました。NPT(核不拡散条約)再検討会議成功へ、2005年と2010年にニューヨーク行動に参加しました。
 世田谷区で1985年「平和都市宣言」があがりました。その実現に「非核平和都市宣言を求める署名」運動に一緒に参加し、区内で7万筆の署名を集めるなど奮闘しました。その後、世田谷区は2010年に平和市長会議に参加しています。

趣味は、演劇鑑賞、写真撮影、ロボット作り他

 私の演劇鑑賞は、1980年に友人に誘われて青年劇場の「青春の砦」の芝居を観たことがきっかけで青年劇場のファンになり毎年、芝居を見ています。
 写真撮影では、フレームの中にどういう構図と色彩を入れるかなどテレビ番組制作で身につけたものをいかし、写真を撮ることが好きです。
 工業高校以来の電気工作いじりが好きで、ロボット作りもしています。ヒーマノイドロボットはマイコンと機械工作の傑作です。
 他には、専門学校時代にフォークギターとハーモニカで「よしだたくろう」の歌を歌っていました。また中央合唱団109期研究生として合唱も学びました。合唱団で勉強した発声練習などは議員の演説に大きく役に立っています。歌うのは好きで、いまではカラオケも趣味の一つです。

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